宿を出て、島に三軒しかない食事処のひとつ「とくじん」で昼食をとる。
名物のイラブー(ウミヘビ)を食べる勇気はでなくて、ちゃんぷるーのついた日替わり定食にした。
広い店内にはそこそこ客が入っていて、海風が心地よく吹き流れ、窓からは海が見えてきらきらしている。
海水浴をしてきたカップルや家族旅行に来た親子連れ、一人で黙々とかき氷を食べている女性など、
人も多くにぎわっているにもかかわらず、どこか夏の昼下がり特有のびんの中にいるようなしずけさがあった。
山盛りの野菜炒めを食べながら、ぼんやりとテレビを見る。
関西で起こった殺人事件のニュースをやっていたが、まるでフィクションのように、現実味を感じられなかった。
自分がいる世界と地続きにあるところで起こったこととは思えず、遠い世界での出来事だった。
それは、私が一時的に身軽な旅人であったからではなく、
いつの間にか島に、自然に、久高の神の優しさのなかに属して、安心していたからのような気がする。
島を後にし、季節が変わって、私は東京に戻ったが、きっと近いうちにまた旅に出るだろう。
そして、海風に、満天の星空に、なによりあのしずけさにいざなわれるように、離島を目指すだろう。
人間社会から隔たった、自然の力が強い場所。
どうして旅に出たくなるのかはよくわからない。
現実逃避と言ってしまえばそれまでだし、楽しいから、刺激的だから、はもちろんだが、
成長できるから、新しい自分になれるから、というのはなんだか陳腐だ。
日常生活を生きていたって、その気になれば刺激的な人との出会いややりがいのある仕事は見つけられるし、自分を成長させることだってできるだろう。
旅でしかできないことはなんだろうか。
一言で言ってしまえば、場所の力を借りることだ。
ゆたかな自然は、こちらから何も差し出さなくとも、たくさんのものを与えてくれる。
場所の力を借りれば、無理にがんばったり、苦しみに耐え抜いたりしなくても、
新しい角度からものごとを見られるようになる気がする。
久高は神に認められた人しか行けない、などという人もいるが、
そんなわけはなく、それこそおごった考え方ではないかと私は思う。
もちろん、島の人と文化への敬意をもち、島の歴史をある程度知ってから訪れることはおすすめするけれど。
ただ、旅に出るのにベストなタイミングというものはある。
ふっと思い出したとき、地図を見てぐうぜん見つけたとき、自由に使えるお金ができたとき、スケジュール帳にぽっかり空白がうまれたとき――、
「行きたい」が「行かなきゃ」に変わって、心がわくわくはずんできたら、
太平洋に浮かぶ小さな島へ、旅立ってみてもいいかもしれない。
久高島はきっとそのときも、甘い果実のにおいと聖なるしずけさに、満ちているだろうから。
the end